1.「この歯は、もう抜くしかありませんね」―その一言に、希望を失いかけているあなたへ
歯科医師から告げられる、最も重く、そして最も聞きたくない言葉。「この歯は、もう抜くしかありません」。その瞬間、頭が真っ白になり、これまでの後悔や、これからの不安が一気に押し寄せてくる…。そんな辛い経験をされた方はいらっしゃいませんか?大きな虫歯を長年放置してしまった自分への不甲か、大切な体の一部を失うことへの恐怖、そして、抜いた後はどうなるのだろうという漠然とした不安。しかし、もし、その「抜歯」という診断が、唯一絶対の結論ではなかったとしたら…?現代の歯科医療は、日進月歩で進化を続けています。かつては諦めるしかなかったような、絶望的な状態の歯でさえも、最新の技術と専門家の知識を駆使することで、救い出せる可能性が生まれてきているのです。この記事は、「抜歯」という宣告に、ただうなずくしかないと諦めかけているあなたへ贈る、希望の物語です。あなたの歯を残すための“最後の選択肢”について、専門家の視点から、その可能性と限界を、誠心誠意お話しします。
2.なぜ「抜歯」と診断されるのか?歯の保存を不可能にする3つの壁
「この歯は抜くしかありません」―その宣告は、まるで医師からの“さじを投げられた”かのように感じられ、深い絶望感に襲われるかもしれません。しかし、私たち歯科医師が「抜歯」という最終手段を選択するのには、決して感情的な理由や、治療が面倒だからといった安易な理由があるわけではありません。そこには、その歯を無理に残しておくことが、もはやあなたのお口全体の健康にとって、有益どころか、有害でさえあるという、極めて冷静で、医学的な判断が存在します。いわば、歯を救う道が、越えることのできない、高く、そして分厚い「3つの壁」によって完全に閉ざされてしまった状態なのです。この壁の存在を正確に理解することは、なぜあなたが「抜歯」と診断されたのかを客観的に受け止め、そして、その診断に本当に立ち向かう術はないのかを考えるための、重要な第一歩となります。ここでは、私たち歯科医師が、断腸の思いで抜歯を決断せざるを得なくなる、その決定的な3つの状況について、詳しく解説していきます。
・壁①:虫歯が歯ぐきの下、骨のレベルまで進行している(C4)
虫歯は、その進行度によってC0からC4までの段階に分類されます。そして、「抜歯」という診断が下される最も一般的なケースが、虫歯が最も重症化した「C4」と呼ばれる状態です。これは、歯の頭の部分(歯冠部)が虫歯によってほとんど溶けて崩壊し、歯の根っこ(歯根)だけが残ってしまった状態を指します。この段階では、もはや痛みを感じる神経(歯髄)も死んでしまっていることが多く、一見すると痛みがないために、かえって放置されがちです。問題は、虫歯の進行がどこまで及んでいるかです。もし、虫歯が歯ぐきよりも上の、見える範囲に留まっていれば、根の治療をして土台を立て、被せ物をすることで、まだ歯を救える可能性があります。しかし、虫歯が歯ぐきよりもさらに深く、歯を支えている顎の骨(歯槽骨)のレベルにまで達してしまっている場合、事態は極めて深刻です。なぜなら、この状態では、たとえ根の治療ができたとしても、その上に安定した土台や被せ物を作ることが物理的に不可能だからです。湿った砂の上に家を建てるようなもので、すぐに取れたり、壊れたりしてしまいます。さらに、歯ぐきの下の虫歯は、細菌の温床となり、周囲の骨を溶かし続けるため、残しておくこと自体が、お口全体の健康を脅かす時限爆弾となってしまうのです。これが、保存を阻む、第一の壁です。
・壁②:歯の根が割れている、または折れている(歯根破折)
二つ目の越えがたい壁は、「歯根破折(しこんはせつ)」、つまり、歯の根っこが割れたり、ひびが入ったりしている状態です。特に、神経を取った歯は、栄養の供給が絶たれてもろくなっているため、この歯根破折を起こすリスクが非常に高くなります。問題は、その「割れ方」です。もし、歯の根の先端部分だけが水平にポキッと折れているような場合(水平破折)は、状態によっては保存できる可能性も残されています。しかし、最も絶望的なのは、歯の根が、まるで薪を割るように、垂直方向(縦方向)に真っ二つに割れてしまっている場合(垂直破折)です。なぜなら、このひび割れの隙間は、お口の中の細菌にとって、格好の侵入経路となってしまうからです。この隙間を通じて、細菌は歯の内部から、歯を支える骨へとダイレクトに侵入し、根の周りに深刻な炎症と、骨の破壊を引き起こします。こうなると、どんなに高度な根の治療を行っても、細菌の供給源である「ひび」そのものを完全に封鎖することは、現代の歯科医療技術をもってしても、極めて困難です。無理に残そうとすれば、感染は周囲の骨へと広がり続け、いずれは隣の健康な歯にまで悪影響を及ぼしかねません。この目に見えない「亀裂」こそが、歯の保存を不可能にする、第二の、そして非常に厄介な壁なのです。
・壁③:歯を支える骨が、歯周病でほとんど失われている
どんなに立派な歯そのものが残っていたとしても、その歯を支える「土台」が失われてしまえば、歯は機能することができません。家で例えるなら、建物は無傷でも、その下の土地が地盤沈下で崩れてしまっているような状態です。この土台となる土地、すなわち歯を支える顎の骨(歯槽骨)を破壊してしまう病気が、歯周病です。歯周病が重度に進行すると、歯を支える骨は、歯周病菌が出す毒素や、それに対する体の免疫反応によって、少しずつ、しかし着実に溶かされていきます。そして、歯を支える骨が、元の高さの半分、3分の1以下にまで減少してしまうと、歯は指で押しただけでもグラグラと大きく揺れ動くようになります。もはや、食事で物を噛むという、本来の役割を果たすことはできません。この段階に至ると、たとえ歯に虫歯が全くなかったとしても、その歯を残しておくこと自体が難しくなります。なぜなら、グラグラの歯は、それ自体が周囲に炎症をまき散らす感染源となり、また、周りの健康な歯の骨まで巻き添えにして、破壊を進めてしまうからです。歯を支える骨があまりにも失われてしまった状態。これが、たとえ歯自体に問題がなくとも、抜歯という辛い決断を下さざるを得なくなる、第三の壁なのです。
3.「歯を残す」ことの本当の意味。それは、ただ歯があれば良いわけではない
「抜歯と言われた歯を、何とかして残したい」―そのお気持ちは、ご自身の体の一部を大切に想う、人間として非常に自然で、そして尊い感情です。私たち歯科医師も、その想いを共有しています。歯科医療の根本的な使命は、できる限り天然の歯を保存し、患者様ご自身の歯で、生涯にわたって健康で豊かな生活を送っていただくお手伝いをすることにあるからです。しかし、ここで一度、冷静に立ち止まって考えていただきたいのです。「歯を残す」ということの、本当の意味について。それは、単に「抜かずに、お口の中に歯が存在している」という状態を指すのでしょうか。もし、残した歯が、すぐに痛くなったり、腫れたりを繰り返し、満足に物を噛むこともできず、さらには周りの健康な歯にまで悪影響を及ぼすとしたら、それは本当に「歯を残せて良かった」と言えるのでしょうか。私たちが目指す「歯の保存」とは、もっと質の高い、未来を見据えたゴールです。それは、あなたのこれからの人生において、その歯が本当の意味で“資産”となる状態で残すこと。ここでは、私たちが考える「歯を残す」ことの真の定義について、3つの重要な条件を挙げながら、詳しくお話ししていきます。この視点を持つことが、あなたが後悔のない治療選択をするための、確かな羅針盤となるはずです。
・長期的に機能し、安定して噛めること
私たちが「歯を残す」という時に、最も重要視する条件の第一は、その歯が「機能歯」として、長期にわたって安定的に役割を果たせるか、という点です。歯の最も基本的な機能は、言うまでもなく「咀嚼(そしゃく)」、すなわち食べ物を噛み砕くことです。どんなに見た目が良くても、噛んだ時に痛みが出たり、グラグラして力が全く入らなかったりするのでは、歯としての役割を果たしているとは言えません。それは、もはや「歯」という名の、お口の中にある「異物」でしかないのです。私たちが目指す保存治療は、治療後、あなたがその歯で、リンゴやおせんべい、お肉といった、ある程度の硬さのある食べ物を、何の不安もなく、しっかりと噛むことができる状態を取り戻すことをゴールとします。そして、その安定した状態が、少なくとも5年、10年、あるいはそれ以上、将来にわたって維持できるという、科学的な見通しが立つこと。これが、治療介入を行う上での大前提となります。一時的に歯を残せたとしても、数ヶ月や1、2年で再び問題が起き、再治療や抜歯が必要になるのであれば、それは患者様にとって、時間的にも、経済的にも、そして精神的にも、かえって大きな負担となってしまいます。ただ存在するだけの歯ではなく、あなたの食生活を支える、頼もしいパートナーとして機能し続けること。それこそが、価値ある「保存」なのです。
・清掃がしやすく、再発のリスクが低いこと
二つ目の重要な条件は、残した歯とその周りが、衛生的に管理しやすい(清掃性が高い)状態であるか、ということです。どんなに完璧な治療を施したとしても、治療後の日々のセルフケア、つまりあなた自身による歯磨きがきちんとできなければ、その歯は再び虫歯や歯周病に侵されてしまいます。特に、重度の虫歯や歯周病の治療を行った歯は、もともとがハイリスクな状態です。その歯を長期的に維持していくためには、再感染のリスクを可能な限り低く抑える必要があります。例えば、歯ぐきの深い部分にまで及ぶ虫歯を治療した場合、被せ物の縁が複雑な形になり、歯ブラシが届きにくく、汚れが溜まりやすい場所ができてしまうことがあります。このような清掃性の悪い状態のまま歯を残してしまうと、そこが新たな細菌の温床となり、数年で虫歯が再発したり、歯周病が悪化したりする可能性が非常に高くなります。それは、いわば“時限爆弾”を抱えたまま生活するようなものです。私たちが歯を残すかどうかの判断をする際には、常に「この歯は、治療後に患者様ご自身が、無理なく、そして効果的に清掃できる状態にできるか」という視点を持っています。清掃性が確保できない歯を無理に残すことは、将来の再発を約束するようなもの。それは、真の意味での「保存」とは呼べないのです。
・無理に残すことが、周りの健康な歯に悪影響を及ぼさないこと
三つ目の、そしてしばしば見過ごされがちですが、極めて重要な条件。それは、その一本の歯を無理に残そうとすることが、隣や、噛み合う相手の、健康な歯に悪影響を及ぼさないか、という視点です。お口の中は、28本の歯が、それぞれ支え合い、バランスを取りながら機能している、一つの精密な共同体です。その中の一本の歯が、重い病気にかかってしまった場合、その影響はその歯だけに留まりません。例えば、重度の歯周病でグラグラになった歯を放置すれば、その歯の周りの骨の吸収はさらに進み、やがては隣の健康な歯を支える骨までをも巻き込んで、溶かしてしまいます。まるで、腐った一本の柱が、家全体の土台を蝕んでいくように。また、根の先に大きな膿の袋ができた歯を無理に残せば、その感染が周囲に広がり、隣の歯の神経までダメにしてしまう可能性もゼロではありません。このような状況では、もはや問題の歯一本を救うかどうかの議論ではなく、「お口全体の健康を守るために、最も被害を少なくする選択は何か」という、より大きな視点での判断が求められます。時には、将来的なリスクを断ち切るために、問題となっている歯を早期に抜歯し、他の健康な歯を守るという選択が、お口全体の未来にとって、最も賢明な判断となることもあるのです。木を見て森を見ず、とならないこと。これもまた、責任ある「保存」の考え方なのです。
4.“最後の砦”となる精密根管治療。マイクロスコープが拓く新たな可能性
・なぜ通常の根管治療では治らないのか?複雑な根管の見逃し
そもそも、一度行ったはずの根管治療が、なぜ失敗し、再感染を起こしてしまうのでしょうか。その最大の理由は、根管の構造の複雑さにあります。歯の根管は、水道管のように一本、まっすぐな管ではありません。木の根のように、途中で枝分かれしていたり(側枝)、網の目のように複雑に分岐していたり(根管網)、あるいは、非常に湾曲していたりと、その形態は千差万別です。従来の根管治療は、歯科医師が肉眼、あるいは拡大鏡(ルーペ)を頼りに、この暗くて狭い管の中を手探りで清掃していくものでした。しかし、人間の肉眼で見える世界には限界があります。どんなに熟練した歯科医師であっても、この複雑な形態の根管のすべてを、完全に見つけ出し、そしてその内部の感染源を100%除去することは、極めて困難でした。その結果、見逃されてしまった側枝や、清掃しきれなかった根管の隙間に潜んでいた細菌が、再び増殖を始め、根の先に膿の袋を作ってしまうのです。これが、治らない根管治療、すなわち「感染根管」の正体です。そして、この再治療を何度繰り返しても原因が取り除けず、最終的に「これ以上は無理だ」と、抜歯の診断が下されてしまうのです。
・肉眼の20倍以上。マイクロスコープが「見える世界」に変える
この、従来の根管治療が抱える根本的な問題を、劇的に解決したのが「マイクロスコープ」です。マイクロスコープは、治療する部分を、肉眼の最大20倍以上にまで拡大し、さらに強力なライトで、根管の奥深くを、まるで昼間のように明るく照らし出すことができます。これにより、これまで「見えないから分からない」とされてきた世界が、一変します。肉眼では点にしか見えなかった根管の入り口が、クレーターのようにはっきりと見え、その内部の壁の状態や、汚れの残り具合まで、詳細に確認することができるのです。これまで見逃されがちだった、余分な根管(樋状根など)や、イスムスと呼ばれる根管と根管をつなぐ複雑な交通路、あるいは根管の壁に開いた小さな穴(パーフォレーション)なども、その存在を明確に捉えることができます。治療はもはや、「勘」に頼る手探りの作業ではありません。拡大された鮮明な視野のもとで、感染源を「見て、確認しながら」確実に除去していく、極めて精密な外科手術へと昇華するのです。この「見える」か「見えない」かの違いは、治療の精度において、天と地ほどの差を生み出します。
・感染源を徹底的に除去し、歯の土台を再建する
マイクロスコープを用いた精密根管治療では、その圧倒的な拡大視野を活かし、様々な特殊な器具を駆使して、感染源の徹底的な除去を目指します。超音波の微細な振動を利用した器具で、複雑な形態の根管の隅々まで洗浄・消毒したり、ニッケルチタンファイルという、柔軟性に富んだ器具で、湾曲した根管の先まで、しなやかに追従しながら清掃したりします。そして、感染源が完全に取り除かれたことを確認した後、MTAセメントと呼ばれる、生体親和性が高く、封鎖性に優れた特殊な材料を用いて、根管の内部を隙間なく、緊密に充填します。これにより、細菌の再侵入を確実に防ぎ、歯の内部を無菌的な状態に保つことができるのです。さらに、根管治療後は、歯の強度を補うための土台(ファイバーコアなど)を立て、最終的に精密な被せ物(クラウン)を装着することで、歯の機能と見た目を回復させます。このように、マイクロスコープを用いた精密根管治療は、感染の根本原因を除去し、歯の土台そのものを再建することで、これまで「抜歯しかない」と言われてきた歯を、再び長期的に機能する健康な歯として、お口の中に残せる可能性を切り拓く、まさに“最後の砦”と呼ぶにふさわしい、高度な歯科医療なのです。
5.歯ぐきの下の虫歯に挑む。「エクストリュージョン」という“歯の引っ張り出し”作戦
「虫歯が歯ぐきの下の、深いところまで進んでしまっているので、もう被せ物を作ることはできません。抜歯になります」―こんな風に、歯の「残骸」が歯ぐきに埋もれてしまっているような状態で、抜歯を宣告された方はいらっしゃいませんか。大項目2でお話ししたように、虫歯が歯を支える骨のレベルにまで達してしまうと、その上に安定した土台や被せ物を装着することは、物理的に不可能になります。それは、水面下にある土地に、家を建てようとするようなもので、土台が安定せず、すぐにダメになってしまうからです。従来であれば、このようなケースは、まさに「打つ手なし」で、抜歯以外の選択肢はありませんでした。しかし、ここにも、現代の歯科医療が生み出した、常識を覆す“起死回生”の治療法が存在します。それが、「エクストリュージョン(歯根挺出術:しこんていしゅつじゅつ)」と呼ばれる、まるでマジックのような治療法です。これは、矯正治療の力を応用して、歯ぐきの下に埋もれてしまった歯の根を、意図的に“引っ張り出す”ことで、被せ物が可能な状態を作り出す、極めて高度なテクニックです。ここでは、このエクストリュージョンが、どのようにして抜歯寸前の歯に、再び輝きを取り戻させるのか、その巧妙なメカニズムについて、詳しくご紹介します。
・歯ぐきの下の虫歯を、なぜそのまま治療できないのか
そもそも、なぜ歯ぐきの下にまで及んだ虫歯は、そのまま治療することができないのでしょうか。その理由は、健全な被せ物を作るための「絶対条件」を満たせないからです。精度の高い、長持ちする被せ物を作るためには、「フェルール」と呼ばれる、非常に重要な構造が必要になります。フェルールとは、被せ物を装着する際に、土台となる歯を、最低でも1.5〜2mm程度の高さで、全周にわたって帯のように取り囲むことができる、健康な歯質のことです。このフェルールがあることで、被せ物は、まるで桶を締める「箍(たが)」のように、歯と一体化し、噛む力に対して抵抗することができます。しかし、虫歯が歯ぐきの下まで進行してしまうと、このフェルールを確保するための健康な歯質が、歯ぐきや骨の下に隠れてしまっているため、被せ物を作ることができません。無理やり歯ぐきを削って治療しようとしても、今度は「生物学的幅径(せいぶつがくてきふくけい)」と呼ばれる、歯ぐきの健康を保つために不可欠なスペースを侵害してしまい、慢性的な炎症や骨の吸収を引き起こしてしまいます。つまり、被せ物を作るための「土台の高さ」が足りない。これが、抜歯と診断される、物理的な理由なのです。
・矯正の力を応用し、歯を骨ごと、ゆっくりと引き上げる
この、物理的に不可能な状況を可能にするのが、エクストリュージョンの考え方です。エクストリュージョンでは、まず、残っている歯の根に、フックのような装置を取り付けます。そして、そのフックに、隣の歯などに固定したゴムやワイヤーを引っ掛け、非常に弱い力(矯正力)を持続的にかけ続けます。すると、どうなるでしょうか。歯と骨の間にある「歯根膜」がその力に反応し、歯は、まるで芽が地面から顔を出すように、1ヶ月に1〜2mm程度の、非常にゆっくりとしたスピードで、骨や歯ぐきを伴いながら、上方向へと引っ張り出されていきます(挺出)。 これは、歯が自然に生えてくる時のメカニズムを、人為的に再現するようなものです。決して、無理やり力ずくで引き抜くのではありません。極めて生理的な体の反応を利用して、歯をその土台ごと、意図した位置まで移動させるのです。このプロセスには、通常、数週間から数ヶ月の期間を要しますが、これにより、これまで歯ぐきや骨の下に隠されていた、虫歯になっていない健全な歯質の部分を、歯ぐきの上に露出させることができるのです。水面下にあった土地を、地盤そのものから隆起させて、家を建てるのに十分な高さの土地に変える、というイメージです。
・健全な歯質を歯ぐきの上に出し、被せ物が可能な状態を作る
エクストリュージョンによって、歯の根が十分に引っ張り出され、被せ物を作るために必要な「フェルール」が確保できるだけの、健康な歯質が歯ぐきの上に出てきたら、いよいよ最終的な治療へと進みます。まず、引き上げられた歯が、元の位置に戻らないように、一定期間固定します(保定)。その後、必要であれば、歯ぐきのラインを整える簡単な外科処置(歯冠長延長術)を行い、最終的な被せ物を作るための、理想的な土台の形を整えます。そして、精密な根管治療を行い、歯の強度を補うための土台(コア)を立て、最後に、機能的にも、審美的にも、周囲の歯と完全に調和した、精度の高い被せ物(クラウン)を装着します。こうして、かつては「抜歯しかない」と宣告された、歯ぐきの下の歯の残骸が、再び、しっかりと物を噛むことができる、一本の機能的な歯として、生まれ変わるのです。もちろん、エクストリュージョンは、すべてのケースに適用できるわけではなく、歯の根の長さが十分にあることなど、いくつかの条件が必要です。しかし、この治療法は、これまで諦めるしかなかった多くの歯に、再び光を当てる、まさに“歯の救出作戦”と呼ぶにふさわしい、価値ある選択肢なのです。
6.それでも抜歯を避けられないケースとは?治療の限界と正しい見極め
マイクロスコープを用いた精密根管治療や、エクストリュージョンといった先進的な治療法は、これまで「抜歯」と宣告されてきた多くの歯に、再び命を吹き込む可能性を秘めています。その事実は、希望の光と言えるでしょう。しかし、私たちは、いたずらに「どんな歯でも残せます」といった、無責任な期待を患者様に抱かせるべきではない、と考えています。残念ながら、現代の最高の歯科医療技術をもってしても、越えることのできない「限界」というものが、厳然として存在するからです。その限界点を見誤り、保存が不可能な歯に対して無理に治療を続ければ、それは、患者様の貴重な時間と費用を無駄にするだけでなく、かえってお口全体の健康を損なうという、最悪の結果を招きかねません。「残せる歯」と「残すべきでない歯」を、いかに正確に見極めるか。 それこそが、専門家として最も重要な責務の一つです。ここでは、どのような場合に、私たちは断腸の思いで「抜歯」という最終決断を下さざるを得ないのか、その越えられない壁について、誠実にお話ししたいと思います。
歯根の破折が、歯の縦方向に起きている場合
歯を保存できるかどうかの、最も決定的な分かれ道の一つが、「歯根破折(しこんはせつ)」の有無と、その「割れ方」です。特に、歯の根っこが、まるで薪を割るように、縦方向(歯の長軸方向)に、ピシリと割れてしまっている「歯根垂直破折」は、残念ながら、現代の歯科医療において、予後が最も絶望的な状態の一つとされています。なぜなら、この縦に走るひび割れは、お口の中の唾液や細菌が、歯の内部、そして歯を支える骨の奥深くまで、直接侵入するための「ハイウェイ」となってしまうからです。この細菌の侵入経路を、接着剤などで完全に封鎖しようと試みる治療法も研究されていますが、長期的な成功率は決して高いとは言えません。多くの場合、ひびの隙間から細菌が漏れ出し、歯の周りの骨を溶かし続け、慢性的な炎症が再発します。この状態の歯を無理に残し続けることは、感染源を体内に抱え込み続けるようなものであり、隣接する健康な歯の骨までをも危険に晒すことになります。たとえマイクロスコープでひびが確認できたとしても、その割れ方が「縦方向」であった場合、私たちは、お口全体の未来を守るために、その歯の保存を断念せざるを得ない、という厳しい判断を下すことがほとんどです。
残っている歯の量が、被せ物を支えるにはあまりに少ない場合
歯を保存し、再び機能させるためには、最終的に、その歯に「被せ物(クラウン)」を装着する必要があります。そして、その被せ物が、長期間安定して機能するためには、それを支えるだけの、十分な量の「土台(健全な歯質)」場合、そもそも被せ物を支えるだけの物理的な強度が足りない、という問題に直面します。細く短い杭の上に、大きな建物を建てるようなもので、噛むという強力な力に耐えきれず、すぐに土台ごと折れて(破折して)しまう可能性が非常に高いのです。また、虫歯が歯の根の分岐部(根分岐部)にまで及んでいる場合や、歯周病によって歯を支える骨が極端に失われている場合も同様です。たとえ根管治療が完璧にできたとしても、その歯が物理的な力学の法則に耐えうるだけの構造を失ってしまっていれば、それはもはや「歯」としての機能を回復することはできません。残っている歯質の絶対量が、ある一定のボーダーラインを下回っている場合、私たちは、予後不良の治療に時間と費用をかけるよりも、より確実な方法で機能回復を図るべきだと判断します。
患者様自身の、治療への協力度やセルフケアが難しい場合
歯を救うための高度な治療は、私たち歯科医師だけの力では、決して成功させることはできません。そこには、患者様ご自身の、治療への深いご理解と、積極的なご協力が不可欠となります。例えば、精密根管治療やエクストリュージョンは、複数回の通院を必要とする、時間のかかる治療です。お約束通りに、そして治療が完了するまで、根気強く通院していただくことが大前提となります。また、治療によって歯を救うことができたとしても、その後の日々のセルフケア、すなわち丁寧なブラッシングや、定期的なメンテナンスを怠ってしまえば、その歯は再び虫歯や歯周病に侵されてしまいます。特に、一度大きなダメージを受けた歯は、健康な歯に比べて、常に再発のリスクを抱えています。もし、患者様ご自身に、治療の重要性をご理解いただけなかったり、セルフケアへのモチベーションを維持することが困難であったり、あるいは、お体の状態などから、定期的な通院がどうしても難しい、といった状況がある場合。このようなケースでは、たとえ技術的には歯を残すことが可能であったとしても、長期的な成功が見込めないと判断し、あえて抜歯を選択し、より管理がしやすい、確実な治療法(インプラントやブリッジなど)をご提案することがあります。これは、将来的に、より大きなトラブルとなって患者様にご負担をおかけすることを避けるための、苦渋の、しかし、誠実な判断なのです。
7.根の先の“病巣”を直接叩く。「外科的歯内療法」という最終手段
マイクロスコープを用いた精密根管治療は、歯の内部から感染源を取り除くための、非常に強力な手段です。しかし、それでもなお、治癒に至らない難攻不落のケースが存在します。それは、感染が根管の中だけに留まらず、根の先端の外側にまで及んでいたり、あるいは、根管の内部に形成された細菌の塊(バイオフィルム)が、薬剤だけでは除去できないほど強固になってしまっていたりする場合です。歯の中からアプローチする通常の根管治療では、どうしても手が届かない領域。このような、まさに“最後の砦”とも言える状況で、抜歯を回避するために残された、もう一つの選択肢があります。それが、「外科的歯内療法(げかてきしないりょうほう)」という、極めて高度な治療法です。まるで、要塞の内部から攻略するのが難しいなら、外壁を破って直接中枢を叩くような作戦です。この治療法は、豊富な知識と卓越した技術、そしてマイクロスコープなどの先進設備が揃って初めて可能となる、まさに専門性の高い領域。ここでは、抜歯寸前の歯を救うための、この最終手段について詳しく解説していきます。
なぜ通常の根管治療では治らない“しつこい病巣”が残るのか?
精密根管治療を何度も繰り返しているにもかかわらず、一向に歯ぐきの腫れや痛みが引かない、あるいは、レントゲン写真で根の先の黒い影(透過像)が消えない…。このような「難治性根尖性歯周炎(なんちせいこんせんせいししゅうえん)」には、必ず原因があります。その最大の原因の一つが、根管の内部、特に根の先端付近に形成された「バイオフィルム」の存在です。バイオフィルムとは、細菌が自らを守るために作り出す、ネバネバとした強力なバリアのようなもの。このバリアに守られた細菌は、根管治療で用いる消毒薬に対して強い抵抗性を示します。そのため、通常の洗浄や薬剤だけでは、バイオフィルムを完全に破壊し、内部の細菌を殺菌することが非常困難なのです。
さらに、もう一つの厄介な原因として「根尖孔外感染(こんせんこうがいかんせん)」が挙げられます。これは、感染が根管の中(歯の内部)に留まらず、根の先端にある出口(根尖孔)を越えて、歯の“外側”にまで細菌が定着してしまっている状態です。こうなると、いくら歯の内部を綺麗にしても、外側にいる細菌が悪さをし続けるため、炎症は治まりません。これらのケースは、歯の中からアプローチする従来の方法では、まさに限界。この「手の届かない敵」を攻略するために、外科的なアプローチが必要となるのです。
根の先端を手術で切除する「歯根端切除術」とは?
この、歯の中からでは手の届かない難治性の病巣に対し、最も一般的に行われる外科的歯内療法が「歯根端切除術(しこんたんせつじょじゅつ)」です。これは、その名の通り、問題の原因となっている歯の根の先端(歯根端)を、病巣ごと外科的に切除してしまう手術です。具体的な手順としては、まず局所麻酔を十分に行い、歯ぐきを小さく切開して、歯を支えている骨を一部削り、問題の根の先端を露出させます。そして、マイクロスコープによる拡大視野のもとで、感染の温床となっている根の先端約3mmと、その周囲の膿の袋(歯根嚢胞)や不良な組織を、正確かつ完全に取り除きます。
ただ切除するだけではありません。最も重要なのは、切除した根の断面から、再び細菌が漏れ出さないように、その切断面を完全に封鎖することです。ここで「MTAセメント」という特殊な材料が活躍します。MTAセメントは、生体親和性が非常に高く、封鎖性にも優れているため、このセメントで根の断面を逆側から蓋(逆根管充填)をすることで、歯の内部を完全に無菌化し、細菌の漏洩をシャットアウトするのです。
これにより、これまで治らなかった炎症が治まり、除去された部分の骨が再生され、歯を抜かずに保存できる可能性が飛躍的に高まります。まさに、マイクロスコープとMTAセメントの登場によって、成功率が劇的に向上した、現代の歯の保存治療を象徴する術式の一つです。
一度抜いて、お口の外で修理する「意図的再植術」
歯根端切除術は非常に有効な治療法ですが、手術を行う部位によっては、適用が難しい場合があります。例えば、下顎の奥歯のように、すぐ近くに太い神経(下歯槽神経)が走っている場所や、骨が厚くて根の先端へのアプローチが困難な場合です。このような、外科的アプローチすら困難な状況で検討される、最後の“ウルトラC”とも言える治療法が「意図的再植術(いとてきさいしょくじゅつ)」です。これは、一度、対象となる歯を慎重に抜歯し、お口の“外”に取り出して、直接目で確認しながら、根の先の病巣除去や、MTAセメントによる封鎖、あるいは根のひび割れの修復など、必要な処置をすべて施した上で、再び元の場所(歯槽窩)へ戻す、という驚くべき治療法です。
この手術の成否を分ける最大の鍵は「時間」です。歯の根の表面には「歯根膜(しこんまく)」という、歯と骨とを結びつける重要な組織があり、この歯根膜の細胞を生かしたまま戻せるかどうかが、再植の成功率に直結します。そのため、抜歯から再植までの処置は、わずか15分程度という極めて短時間で、正確に行う必要があります。成功すれば、他のどんな方法でも救えなかった歯を保存できる可能性がありますが、歯の状態(歯根の形や、歯周病の進行度など)によっては適用できない場合もあり、また、歯が骨と癒着してしまう(アンキローシス)リスクも伴います。
まさに、歯科医師の高度な技術と経験、そして綿密な治療計画が求められる、究極の歯の保存治療と言えるでしょう。
8.それでも抜歯になったら?その後の選択肢と「天然歯」の圧倒的価値
ここまで、抜歯を回避するための様々な先進的な治療法についてお話ししてきました。しかし、それでもなお、お口全体の健康を守るために、やむを得ず抜歯という決断を下さなければならないケースも、残念ながら存在します。大切な歯を失うという事実は、計り知れないほどの喪失感と不安を伴うことでしょう。しかし、どうかここで希望を捨てないでください。歯を失った後の治療法もまた、大きく進歩しています。失われた機能と見た目を取り戻し、再び快適な食生活を送るための選択肢は、確かに存在するのです。しかし、同時に、私たちはプロフェッショナルとして、あなたに一つの真実をお伝えしなければなりません。それは、「どんなに優れた人工の歯も、神様が作ったあなた自身の天然の歯(天然歯)には、決してかなわない」という厳然たる事実です。この事実を深くご理解いただくことこそが、今ある歯を、そしてこれからのお口の健康を守るための、最も大切な羅針盤となります。ここでは、歯を失った後に行われる3つの代表的な治療法を公平にご紹介するとともに、なぜ私たちが、最後の最後まで「ご自身の歯を残すこと」にこだわり続けるのか、その根源的な理由について、熱意をもってお話しします。
第二の永久歯「インプラント」の光と影
歯を失った際の治療法として、現在、最も天然歯に近い機能と見た目を回復できるとされているのが「インプラント治療」です。これは、歯を失った部分の顎の骨に、チタン製の人工歯根(インプラント体)を埋め込み、その上に人工の歯を装着する方法です。まるで、もう一度ご自身の歯が生えてきたかのような感覚で、硬いものでもしっかりと噛むことができ、見た目も極めて自然です。また、隣の健康な歯を削る必要がないため、他の歯に負担をかけないという、非常に大きなメリットがあります。この点だけを見れば、まさに理想的な治療法と言えるかもしれません。しかし、このインプラントにも、知っておくべき「影」の部分が存在します。まず、インプラントを埋め込むための外科手術が必要であり、骨の状態によっては治療期間が半年から1年以上と長期間に及ぶこともあります。そして、最も注意すべきなのが「インプラント周囲炎」という病気のリスクです。これは、インプラントの周りで起こる歯周病のようなもので、一度発症すると進行が早く、最悪の場合、せっかく入れたインプラントが抜け落ちてしまうこともあります。インプラントは虫歯にはなりませんが、歯周病と同じような病気にはなるのです。そして、このリスクを回避するためには、ご自身の歯以上に、徹底した日々のセルフケアと、定期的なプロによるメンテナンスが、生涯にわたって不可欠となります。インプラントは「入れたら終わり」の魔法の歯ではなく、その輝きを維持するためには、患者様ご自身の強い意志と努力が求められる、ということを忘れてはなりません。
手軽さと引き換えに失うもの。「ブリッジ」という選択
歯を失った際の、より一般的な治療法の一つが「ブリッジ」です。これは、失った歯の両隣にある健康な歯を土台として削り、そこに橋(ブリッジ)をかけるように、連結された人工の歯を装着する方法です。固定式のため、入れ歯のような取り外しの手間や違和感が少なく、保険が適用される材質を選べば、比較的費用を抑えて治療できるというメリットがあります。治療期間も比較的短く、多くの場合、数週間で機能を取り戻すことができます。しかし、この手軽さと引き換えに、ブリッジには、将来のお口の健康にとって、非常に大きな代償が伴うことを知っておく必要があります。その最大のデメリットは、何と言っても「健康な歯を削らなければならない」という点です。歯は、一度削ってしまうと、二度と元の姿には戻りません。エナメル質という最も硬い鎧を失った歯は、虫歯になりやすくなり、その寿命は確実に短くなります。つまり、失った1本の歯を補うために、罪のない健康な歯を2本も道連れにしてしまう可能性があるのです。さらに、ブリッジは構造上、歯と歯ぐきの間に汚れが溜まりやすく、清掃が非常に困難です。そのため、土台となっている歯が虫歯になったり、歯周病が進行したりするリスクが常に付きまといます。そして、もし土台の歯が一本でもダメになってしまえば、ブリッジ全体をやり直すことになり、今度はさらに多くの歯を削る必要が出てくるかもしれません。この「負の連鎖」が、ブリッジ治療に潜む、最も深刻なリスクなのです。
なぜ「自分の歯」に勝るものはないのか?“歯根膜”という奇跡のセンサー
インプラントもブリッジも、失った機能を取り戻すための優れた治療法です。しかし、なぜ私たちは、それでも「天然歯」にこだわり続けるのでしょうか。その答えは、天然歯だけが持つ、人工物では決して再現できない、ある奇跡的な組織の存在にあります。それが「歯根膜(しこんまく)」です。歯根膜とは、歯の根っこと、それを支える顎の骨との間に存在する、厚さわずか0.2mm程度の薄い膜状の組織です。この歯根膜は、二つの極めて重要な役割を担っています。一つは「クッション機能」です。食事で硬いものを噛んだ時、その強すぎる力が直接、骨に伝わらないように、この歯根膜がショックアブソーバーのように働き、力を和らげて、歯や骨が壊れるのを防いでいます。そして、もう一つが「センサー機能」です。歯根膜には、圧力や位置を感知する無数の神経(感覚受容器)が分布しており、食べ物の硬さや食感、噛んだ時の微妙な力加減といった情報を、瞬時に脳に伝えています。私たちが、髪の毛一本を噛んだだけでもその存在に気づき、お米の中に混じった小石を瞬時に察知して噛むのをやめられるのは、すべてこの歯根膜の鋭敏なセンサーのおかげなのです。インプラントには、この歯根膜が存在しません。そのため、噛んだ時のクッション機能がなく、どれくらいの力で噛んでいるかを感知するセンサーもありません。結果として、過剰な力がかかっても気づかずに歯が欠けてしまったり、支える骨にダメージを与えてしまったりするリスクがあるのです。どんなに精巧な人工物も、この神様が設計した自己防御システムと、食事の楽しみを豊かにするセンサー機能には、到底かなわないのです。この歯根膜を持つ「あなた自身の歯」を守ること。それこそが、生涯にわたるお口の健康と、豊かな人生を守るための、最善の道なのです。
9.もう後悔しないために。抜歯宣告から学ぶ「未来の歯」を守る3つの誓い
「あの時、もっと早く歯医者に行っていれば…」「痛みがなかったから、大丈夫だと思っていた…」。抜歯という厳しい現実を前にして、多くの患者様が、深い後悔の念に駆られます。そのお気持ちは、痛いほどよく分かります。しかし、過去を悔やんでばかりいては、何も生まれません。本当に大切なのは、この辛い経験を、単なる「失った物語」で終わらせるのではなく、あなたの「未来の歯を守るための、最高の教訓」へと昇華させることです。一本の歯を失うという代償を払って得たこの学びは、他のどの歯よりも、あなたのお口全体の未来を照らす、貴重な道しるべとなるはずです。なぜ、あなたの歯は、抜歯という最悪の結末を迎えなければならなかったのか。その原因を正しく理解し、二度と同じ過ちを繰り返さないと心に誓うこと。それこそが、残されたかけがえのない歯たちを守り抜き、生涯にわたるお口の健康を自らの手で築き上げていくための、最も確実な一歩となります。ここでは、この苦い経験を未来への糧とするために、あなたが今日から実践すべき「3つの誓い」について、私たちの心からの願いを込めて、お話しさせていただきます。
誓い①:「痛み」を基準にしない。症状なき“静かなる脅威”を知る
あなたが歯を失うに至った、最大の過ちの一つは何だったでしょうか。それは、もしかしたら「痛みがなかったから、大丈夫だろう」という、自己判断ではなかったでしょうか。実は、歯の病気、特に虫歯や歯周病における、最も恐ろしい特徴の一つが、これです。病気がかなり進行するまで、はっきりとした「痛み」という自覚症状が現れにくい、という事実です。例えば、虫歯は神経に達する(C3)までは、しみたり、時々痛んだりする程度で、日常生活に支障がないことも少なくありません。そして、神経が死んでしまう(C4)と、痛みは完全に消えてしまいます。しかし、痛みがないからといって、病気が治ったわけでは決してありません。むしろ、水面下では、細菌による歯や骨の破壊が、静かに、しかし着実に進行しているのです。歯周病も同様で、「サイレント・ディジーズ(静かなる病気)」という異名を持つほど、初期から中期にかけては、歯ぐきの軽い腫れや出血程度で、ほとんど痛みを感じません。そして、歯がグラグラし始めた時には、すでに歯を支える骨の大部分が失われ、手遅れとなっているケースが非常に多いのです。この経験から学ぶべき、第一の誓い。それは、「自分の感覚を過信しない」ということです。お口の健康管理において、「痛み」は、頼りになる指標では決してありません。むしろ、症状がないうちから、プロの目で定期的にチェックを受けること。それこそが、手遅れになる前に“静かなる脅威”を発見し、あなたの歯を守るための、最も重要な習慣なのです。
誓い②:「治療の中断」という最大のリスク。一度始めた治療は最後まで
「少し痛みが治まったから」「忙しくて、次の予約をキャンセルしてしまったまま…」。心当たりはありませんか? 歯の治療を、途中で中断してしまうこと。これは、お口の健康にとって「時限爆弾」を仕掛けるのと、何ら変わりない、極めて危険な行為です。例えば、虫歯治療の途中で、仮の詰め物や仮歯のまま長期間放置してしまったとしましょう。仮の材料は、あくまで「仮」であり、精密なものではありません。その隙間から、唾液や細菌が再び歯の内部に侵入し、見えないところで、さらに深刻な虫歯を引き起こします。神経の治療(根管治療)を中断すれば、根管内は細菌にやりたい放題の無法地帯となり、感染はさらに悪化し、抜歯のリスクは飛躍的に高まります。歯周病の治療も同じです。一度クリーニングを受けて少し歯ぐきの状態が良くなったからといって、その後の日々の治療やメンテナンスを怠れば、歯周病菌はすぐに勢力を盛り返し、以前よりもさらに悪い状態へと突き進んでいきます。治療の中断は、それまでの治療に費やした時間と費用を無駄にするだけでなく、結果として、より複雑で、より大掛かりな治療が必要となり、最悪の場合、救えるはずだった歯まで失うことになりかねません。第二の誓い。それは、「一度始めた治療は、必ず、最後までやり遂げる」ということ。私たち歯科医師は、あなたの歯を救うための、綿密な治療計画を立てています。どうか、その計画を信じて、私たちと二人三脚で、ゴールテープを切るまで、最後まで走り抜いていただきたいのです。
誓い③:「治療」から「予防」へ。歯科医院を“パートナー”に変える
これまであなたは、歯科医院をどのような場所だと考えていましたか?「歯が痛くなったら、仕方なく行く場所」「ドリルの音が嫌な、怖い場所」…そんな風に、ネガティブなイメージを持っていたかもしれません。しかし、一本の歯を失うという経験をした今こそ、その意識を、180度転換させる時です。これからの歯科医院は、もはや「治療」のためだけに行く場所ではありません。あなたの大切な歯を、二度と病気にさせないための「予防」の中心地であり、あなたの生涯にわたるお口の健康を、共に守り育んでいくための「信頼できるパートナー」であるべきなのです。治療によって取り戻した健康な状態は、ゴールではなく、新たなスタートラインです。その健康を、いかに長く維持していくか。その鍵を握るのが、歯科衛生士によるプロフェッショナルなクリーニング(PMTC)や、あなたのお口のリスクに合わせたブラッシング指導、そして、歯科医師による定期的なチェックといった「予防メンテナンス」です。美容院やジムに通うのと同じように、お口の健康と美しさを維持するために、定期的に歯科医院を訪れる。この習慣こそが、新たな虫歯や歯周病の発生を未然に防ぎ、万が一、初期の病気が見つかったとしても、ごく簡単な治療で済ませることを可能にします。第三の誓い。それは、「歯科医院との関わり方を、根本から変える」ということ。問題が起きてから駆け込む場所ではなく、問題が起きないように、積極的に活用する場所へ。私たちを、あなたの人生の、頼れるパートナーとして、どうか信頼してください。私たちは、いつでもあなたの味方です。
10.【Q&A】諦める前に知ってほしい、歯の保存治療に関する最後の疑問
ここまで、抜歯を回避するための様々な可能性についてお話ししてきました。しかし、実際に治療を検討する段になると、新たな疑問や不安が次々と湧いてくることでしょう。「本当に自分の歯も可能性があるの?」「治療は痛くない?」「費用はどれくらいかかるの?」…。そのお気持ち、よく分かります。この最後の章では、そうした皆様からよく寄せられる質問に、Q&A形式で、誠心誠意お答えしていきます。あなたの心の中に残る最後の“もやもや”を解消し、安心して次の一歩を踏み出すための、具体的な情報をお届けします。このQ&Aが、あなたの歯の未来を切り拓く、最後の後押しとなることを願っています。
Q1. 他の歯医者さんで「抜歯しかない」と言われました。それでも、相談に行っても良いのでしょうか?
A1. はい、ぜひご相談ください。それこそが、私たちが最もお力になりたいと考えているケースです。
他の歯科医院で「抜歯」と診断された患者様が、私たちの医院を訪れてくださることは、決して珍しいことではありません。むしろ、そういった方々の“最後の砦”となることこそ、私たちの重要な使命の一つだと考えています。
まずご理解いただきたいのは、歯科医師によって、診断の基準や治療方針、そして対応できる治療の範囲が異なるという事実です。例えば、マイクロスコープや外科的歯内療法といった高度な設備や技術を持たない歯科医院では、そもそも「歯を残す」という選択肢を提示すること自体が難しい場合があります。それは、その先生の能力が低いということではなく、医院が提供できる医療の範囲が異なる、ということです。
あなたが受けた「抜歯」という診断は、あくまで、その歯科医院の基準と設備の中で下された「一つの意見」です。私たちは、マイクロスコープを用いた精密な診査や、CT撮影による三次元的な分析など、より多くの情報を基に、あなたの歯に残された可能性を、異なる視点から、もう一度徹底的に探ります。その結果、保存が可能だと判断できるケースは、決して少なくありません。セカンドオピニオンを求めることは、主治医の先生への裏切り行為などでは決してありません。ご自身の体の一部に関わる重大な決断です。複数の専門家の意見を聞き、全ての可能性を検討した上で、ご自身が最も納得できる道を選ぶ。それは、患者様として当然の権利です。どうか「もう決まったことだから」と諦めずに、あなたの歯の未来をかけた、もう一つの扉を開く勇気を持ってください。私たちは、その勇気を全力でサポートします。
Q2. 精密根管治療や外科手術は、痛みが強いのでしょうか? 不安です。
A2. 最新の麻酔技術を駆使し、治療中の痛みを限りなくゼロに近づける努力をしています。どうぞご安心ください。
「歯の治療は痛い、怖い」というイメージをお持ちの方は、非常に多いと思います。特に、根の治療や外科手術と聞くと、身構えてしまうお気持ちは当然のことでしょう。しかし、結論から申し上げますと、治療中に痛みを感じることは、まずありません。
当院では、治療を始める前に、必ず十分な時間をかけて局所麻酔を行います。麻酔の注射そのものの痛みを軽減するために、まずは表面麻酔のジェルを歯ぐきに塗り、感覚を鈍らせます。そして、電動麻酔器を用いて、コンピューター制御で麻酔液を非常にゆっくりと、一定の圧力で注入することで、注射時の不快感を最小限に抑えます。麻酔が完全に効いていることを、患者様ご自身と、私たちの双方でしっかりと確認してから、治療を開始しますのでご安心ください。万が一、治療の途中で少しでも痛みを感じるようなことがあれば、すぐに追加の麻酔を行いますので、遠慮なくお申し付けください。
治療後の痛みについては、処置の内容によって、多少の痛みや腫れを伴う場合があります。特に歯根端切除術などの外科処置の後は、数日間、痛み止めが必要になることもありますが、これは傷が治っていく過程での正常な反応です。もちろん、その際も、適切な痛み止めを処方し、痛みをコントロールできるよう、しっかりとサポートさせていただきます。私たちが最も大切にしているのは、患者様がリラックスして、安心して治療に臨める環境を作ることです。痛みへの不安は、私たちが責任を持って取り除きます。
Q3. 歯を残すための高度な治療は、保険が効かず、高額になると聞きました。費用について教えてください。
A3. 治療内容によって、保険適用の範囲と、自費診療となる範囲がございます。まずは、あなたの歯に最適な治療計画と、それに伴う費用を、事前に明確にご提示します。
費用に関するご心配は、もっともなことだと思います。まず、基本的な考え方として、通常の根管治療や、ブリッジ、入れ歯といった一般的な治療には、健康保険が適用されます。一方で、この記事でご紹介したような、より高度で専門的な治療の多くは、残念ながら現在の保険制度ではカバーされておらず、自費診療(自由診療)となります。
具体的には、
マイクロスコープを用いた精密根管治療
MTAセメントを用いた根管充填や外科処置
歯根端切除術や意図的再植術などの外科的歯内療法
エクストリュージョン(歯根挺出術)
セラミックなどの審美性の高い材料を用いた被せ物
などが、自費診療の対象となります。費用は、治療する歯の部位や、根管の数、治療の難易度によって異なります。
「高額な治療を無理に勧められるのではないか」とご不安に思われるかもしれませんが、その心配は一切ありません。当院では、精密な検査・診断を行った上で、まず、あなたの歯に対して考えられる全ての治療の選択肢を、保険診療・自費診療を含めて、公平にご提示します。そして、それぞれの治療法のメリット・デメリット、成功率、治療期間、そして費用について、詳細にご説明し、あなたが十分に理解・納得してくださるまで、丁寧にお話し合いを重ねます。「抜歯して保険のブリッジにする」という選択肢から、「費用と時間はかかるが、自費診療で歯の保存を試みる」という選択肢まで、全ての情報をテーブルの上に広げ、最終的にどの道を選ぶかを決めるのは、あなたご自身です。私たちは、そのための正確な情報を提供する、ナビゲーターに徹します。まずはお口の状態を拝見し、正確な見積もりを作成することから始めましょう。ご相談だけでも、もちろん大歓迎です。
監修:医療法人社団 櫻雅会
オリオン歯科医院
住所:千葉県白井市大松1丁目22-11
電話番号 ☎:047-491-4618
*監修者
医療法人社団 櫻雅会 オリオン歯科医院
ドクター 櫻田 雅彦
*出身大学
神奈川歯科大学
*略歴
・1993年 神奈川歯科大学 歯学部卒
日本大学歯学部大学院博士課程修了 歯学博士
・1997年 オリオン歯科医院開院
・2004年 TFTビル オリオンデンタルオフィス開院
・2005年 オリオン歯科 イオン鎌ヶ谷クリニック開院
・2012年 オリオン歯科 飯田橋ファーストビルクリニック開院
・2012年 オリオン歯科 NBFコモディオ汐留クリニック開院
・2015年 オリオン歯科 アトラスブランズタワー三河島クリニック 開院
*略歴
・インディアナ大学 JIP-IU 客員教授
・コロンビア大学歯学部インプラント科 客員教授
・コロンビア大学附属病院インプラントセンター 顧問
・ICOI(国際口腔インプラント学会)認定医
・アジア太平洋地区副会長
・AIAI(国際口腔インプラント学会)指導医
・UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)インプラントアソシエーションジャパン 理事
・AO(アメリカインプラント学会)インターナショナルメンバー
・AAP(アメリカ歯周病学会)インターナショナルメンバー
・BIOMET 3i インプラントメンター(講師) エクセレントDr.賞受賞
・BioHorizons インプラントメンター(講師)
・日本歯科医師会
・日本口腔インプラント学会
・日本歯周病学会
・日本臨床歯周病学会 認定医
・ICD 国際歯科学士会日本部会 フェロー
・JAID(Japanese Academy for International Dentistry) 常任理事